市民社会とは

ブクログにも書きましたが一応こちらにも

本文では戦後日本における「市民」「市民社会」というワードは何か特別な、変な期待感を持って扱われてきたことに対して批判し、本来の市民社会がどんなものか、市民社会実現のためには何が必要か問われている。たとえば「市民が中心のまちづくり」とか「市民と行政による協働促進」みたいな「市民」が主役となるニュアンスのするスローガンが、多くの基礎自治体で叫ばれているが、「市民社会」とは何か、何のためにするのかなどを考えることもなく無批判に言われている、というのを多くの人が感覚レベルでわかると思う。

そして本書では「市民という民主主義の正義VS官僚という権力を乱用する悪」とう単純な形式が「市民」について述べる際前提としてあり、さらにそういう議論の底には進歩史観による前近代社会から近代社会への脱却、その際に必要な革命が日本ではまだ起こっていないという「革命コンプレックス」みたいなものがあることを指摘する。しかし、日本が市民社会のお手本としている欧米では「市民」や「市民社会」の誕生に対してそのような認識はなく、むしろ前近代というか古代から「市民気質」たるものが連綿と現代まで受け継がれ、それに基づいた認識がされているという。つまり、欧米での市民社会は日本の農村的共同体に近い。住民による自治が行われるけれど、それは閉鎖的空間と共同体に対する愛着が必要だということ。

まぁ他にもたくさん書いてあったのですが、忘れました(爆)

佐伯氏の指摘が近年いわれているNPOやボランティア団体にまで及んでいるのか、本書の発行が10年以上前であることを考えると微妙なところですが、前半で言われていた「市民」に対する変な期待感が無批判に叫ばれているというのは、感覚レベルで非常に共感。
ということで、市民社会とは何か、何で必要なのか、最近はやっている「協働」をキーワードに現代日本で蔓延している市民社会とはどんなものかの確認、そして「市民」を地域に対して政治的関心を持つ人々とした場合、投票率の低下や町内会への加入低下を考えるとまだ二本には市民社会が十分にできてないんだろうなーと考え、何が必要か考察することを院でしてみたいです。

ちなみに15日までに提出のリッツ政策科学研究科の研究計画書に書くつもりなので、なんか指摘とかあればよろしくさんです。

そういえば最近レッドブルを初めて飲みました。「疲れが吹っ飛ぶ」みたいな話を聞いてたのですが、吹っ飛ばす以上にエネルギー充填がされたのか逆にだるいです。死亡例も出ている(!)(http://www.narinari.com/Nd/2006045802.html)からあんま飲まないようにしよう。