「カタリバ」という授業


「カタリバ」という授業――社会起業家と学生が生み出す “つながりづくり”の場としくみ

「カタリバ」という授業――社会起業家と学生が生み出す “つながりづくり”の場としくみ


久しぶりに買った書籍です。普段本は買わないのですが、最近収入が入ったというのと、これまた最近ひしひしと重要に感じる「ナナメの関係」について、どんな語られ方をしているのだろうと思って買いました。

1500円すら払うことをためらう自分ですが、買ってよかった!!と太鼓判を押したくなる本でした。

今回メモするのは、主に代表理事の経験に「うんうん。それわかる!」と感じる点がたくさんあったこと。そして今感じている「頭をカチ割る」のと、本書のキーワード「ナナメの関係」について通じることがあったということです。

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ウチの思い出話になるのですが、高校〜現在に至る中で大きく分けて、狭い価値観→第1次カチ割れ→活動/保身→第2次カチ割れ→活動→第3次カチ割れ→ヴィジョン形成へという経歴をたどってきました。

  • 高校では教師とか無視して「大学受験」の評価という軸でガチガチに固め、もうとにかく大学に行って自分を承認してくれるところがほしい!!自分のスキルを認めてもらえるところが欲しい!!と思っていた。
  • 念願の立命館大学入学が決まり「よっしゃ!!ウチの居場所はここ!!」て思うが、高校にはなかった価値観や刺激が大量に流れ込んできて、高校では出会うことなんてまずなかった色んな「スゴイ」人に合って、萎縮してしまう。(ここで萎縮・保身態度に出たのが今村さんとの違いですが)
  • そうやって自分の「居場所探し」として色んな活動をすることで、「フットワークの軽さ」が自分の売りではないかと気づく。
  • そうやって色んな活動に参加してみるんですが…でも忙しい自分が好きだったのが動力源?活動してどうするかなんてヴィジョンはほぼ皆無だった。
  • 院に入っても「何かやってみる」スタンスは変わらず、根を張っていないことに対して不安感抱く…だけどとりあえず頑張らないと…
  • そんな時に言われたのが「ヴィジョンがない」という言葉です。

本書では明記されていませんが、色んな活動をすることは価値観を広げ、自分のスキルアップ・それを生かす場所さがしができます。
それ自体は重要なことだけど、それが通用するのは大学という場所という限定的なものだと思う。何か発信しようとする際、全くの他者からすればキャリアを見てどんな人かフレームワークをあててそれを受信することを考えなければならない。(全くのフレームワークがつけられないのは、多様な人と出会い・コミュニケーションをとり何らかの成果を残さないといけない社会人にとってはあまりメリットではない)
ここれは「広げた風呂敷を包みなおす」という表現がされていますが、自分は上の「第3次カチ割れ」でその作業が非常に重要だ気づいて、ただいま畳みながら悩んでいるところです。。

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2人の活動で特にすごいと思うのが、カタリバの意義について何度も2人で議論を重ね、また色んな立場の人から指摘を受け、それでまた組み立てなおす…そんな作業を何度も何度も繰り返してきたこと
その重要さが特に伝わったのが、収益の半分を賄う事業からの撤退という決断。現在やっている事業が自分たちのミッション達成に合致したものか考え、利益がどんなに出る事業でもミッションからずれるものからは撤退する。なかなかできない決断だと思います。だけどこれは、3年間の下積みの中で何度も軸について議論しあったからこそできることだと思う。

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高校で「いい大学に入る」という価値尺度で固められているように、大学・社会人になってからは「会社的に意義あるもの」という一元的価値尺度で固められています
だからその尺度になじめない人は、価値のない人というレッテルを貼られる。
それが閉塞感じゃないの。自殺者3万人という数値を生み出しているんじゃないの。
「自分はこんなことが好きだ」「これが得意だ」それが承認できる場が、もっと必要なんやね。


「そこは違うんじゃない?」「これについてどう考えているの?」と疑問点はいくつかありますが、それをひいても色んな人に読んでもらいたい!!元気が出てくる本でした。