【読書メモ】ピースボートご一行様

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

「今よりもっといい自分になる」「もっと輝ける自分になれるはず」―その現実と希望とのギャップによって苦しんでしまう人のことを、本書では希望難民と呼んでいる。
希望難民は、希望がたやすくとはかなわない現実で、終わりなき自分探しをつづける。そして希望のかなう見込みのなさから生じる「閉塞感」に苦しんでしまう。
本書は、彼らに必要なことは「希望を冷却させる」こと、そしてその回路を確保することだという。


本書を要約すると次のようになる。
1・2章では、経済成長という固定された共通のゴールが1973年や1990年を境に変わり始め、ゴールが見えない後期近代へと突入し、若者は承認される場所を失い、「生きづらさ」「閉そく感」を感じていることを述べている。そんな現代的不幸を持つ若者が閉塞感を打破するためのするのが旅。そしてかつてのバックパッカーのような自分探しが不可能となったため、自分探しの旅をする若者はピースボートをはじめとするボランティア体験ツアーなどの新・団体旅行に吸収される。


3章ではピースボートとはどんな団体か、若者がピースボートに魅了されるのはなぜか、といった疑問について答えていく。ピースボート憲法とか9条とか言っているため政治団体ではないかという声もあるが、平和についてみんなで考え、それを広げていく団体だという。なぜ若者に人気かというと「安くて気楽」だから。またピースボートのポスター貼りをすることで格安もしくは無料でピースボートに乗れるという仕組みや、ポスター貼りのために出入りするピースボートセンター略してピーセンでのコミュニティの濃さが書かれている。

4章から6章にかけてはいざ船に乗った若者たちが、100日を超える期間を同じ船で生活を営み、船を下りてどのような変化を得たかを追っている。本書ではピースボートに乗る若者を「目的性」「共同性」の2つ軸で4類型している。①ピースボートの理念に共感し、船の中で築かれるイベントにも活発に参加する「目的性」「共同性」どちらとも持っている「セカイ型」、②理念の共有はないがイベントには参加し船上生活を楽しむ「文化祭型」、③難民問題や環境問題などに興味を持ち、ピースボートの理念に共感するがイベントへの参加はない「自分探し型」、④純粋に観光を楽しむ「観光型」である。
船を下りて彼らはどのような道を歩むのか。細かくなるため大ざっぱに言うと、セカイ型の目的性が冷却され、政治活動は行わないがピースボートでできた人的ネットークをもとにルームシェアやホームパーティーをして生活を楽しんでいるという。文化祭型もここに吸収される。自分探し型はここで得られた自信やつながりをもって更なる旅や挑戦へ進む。観光型は前の生活へ再び着地するだけである。セカイ型・文化祭型はここで承認の共同体を得たが、後者2類型はピースボートがそういう場としては機能しなかったようである。


まとめの章では、彼らのコミュニティの可変性と開放性が現代的不幸を癒す場として機能していると希望を示す。その一方、目的性を果たすための共同体が「居場所化」してしまい、社会を変えるようなプロジェクトの困難性を示している。そして「やればできる」「夢に向かってあきらめなければ幸せになれる」目的性の達成を求められていながら、社会整備が非常に不十分であることを筆者は批判している。つまり、むやみに夢を見させることへの批判、希望を持つことの冷却を本書は主張している。



自分の感想。
現代的不幸を癒すための共同性へのコミットが若者に必要であり、むやみやたらに「やればできる」と言うな、言うなら社会保障制度をもっと整備せよというのが本書の筋書きでありそれには共感するが、1つ気になった点がある。それは目的性を達成するグループとのかかわりである。本書でもあったがこの共同体は感覚で繋がっているため異質なものの侵入に対して非常に脆い。つまりグループのための政治ができないのではないかということ。だけど、社会は彼らだけではなく他のいろんな価値観を持つグループとごちゃまぜになってできている。外部との利害調整を彼らはすることができるのか。ピースボートでは異質な侵入者に対して泣き崩れるしかできなかったのにできるのか、とシニカルに見ている。